2子どもの作った造形絵画を通して、子どもとのコミュニケーションのあり方について。

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アートを通した子どもへの言葉がけ


子どもはいつだって真剣です。

いや、忘れているだけで大人だってそうです。

日常の生活も楽しい遊びも。

そして地球の一細胞のように、地球にとって、また愛する人にとって最善になることを望んでいます。

そんな子どもの気持ちに普段接しているにも関わらず、先日はその言葉に久しぶりに出会いました。


ある日、T君は「完璧にやりたいんだよ!」と目を潤ませて力強く言葉で吐き出しました。

そのセリフから、彼の自分の未熟さに対する憤りを感じました。

彼は器用でそつなく作ることができ、アートの素材に恵まれて育ってきましたが、『描き初め』という墨と和紙を使ったワークは経験が浅いようでした。

鉛筆なら消せるし、絵の具やペンならコントロールができるけど、墨汁は滲むし、コントロールが効きません。

消そうとして塗りつぶすと醜い証拠が残ります。

彼はイラッと怒りを表し、手が止まりました。

それを見て私は「完璧にやらなくてもいいんだよ。できた形を楽しんでみて。」と声をかけました。

その時、「完璧にやりたいんだよ!」というセリフがT君から出てきました。

彼に言われて、「ああ、そうだね。」と言い、私もそうだった、子どもの時は新しい体験なのに完璧にこなすことが当たり前で当然だと思っていたことを思い出しました。

子どもの私にとって、絵を描いたりものを作ったりすることは自分そのものでしたし、今でも自分の絵を見てくれた人から何も言われないと、世界に1人取り残されたような痛みを感じます。

「ここが好き」とか「ここが不思議」とか、感じたことをなんでも、一言でも言って欲しいのに、何故黙ったまま何も言ってくれない人がいるのか、今でも不思議です。

それは日本の風習なのでしょうが、・・・これはまた別の問題として、横道に逸れるのでやめておきます。

とにかく、絵が上手くなったり、うまく形になったり、完成させることは、自分がこの世界で認められることであり、愛する人に褒められることであり、自己満足と爽快感を味わえるものでした。

書道を何度か経験した中学年と違って、低学年のT君にとってはおそらく初めての体験。

自分の失敗をリアルに突き出されるのは屈辱的で、おまけに白黒はっきりと現れる墨は権威的だったと思われます。

T君は描く道具を変え、やり方を変え、描き直して挑戦していました。

にじみの広がりを計算して墨を和紙に乗せたり、竹串を使って描いたり、彼の創意工夫、発想の自由さを見て、下手に口を出さない方がいいなと私は思いました。

じっと彼を見守り、上手く行った時は一緒に「やったぁ!」と喜び、失敗した時は「あー、難しいね」と代弁しました。

彼はしばらく挑戦していましたが、でもやはりうまくいかず、飽きてしまい、「もういい、やめ」と言って、気持ちを切り替えて他のことを始めました。

固まった体をほぐすように動き回り、紙を飛ばし、結露した窓ガラスの曇りを拭って線を描き、カッターで厚紙を切り取ったり、ある部品を取り出すためにトンカチでガラクタを破壊したり、形になりそうでならないことばかりしました。

そうしているうちに、イライラしてこわばった顔が段々緩んできて、しまいには、絵の具や糊を大量に出して、閃いたものを作りました。

「うんこみたい」と私が呟くと「うん、自分もそう思った。これは白いうんこ。かっこいい。」と彼は笑って言いました。

そして新たにものを作り始めたのです。

ワークが終わる頃、私は彼の描いた「描き初め」のなかで一番彼が納得したものを切り取っていいか、それを台紙の中央に貼っていいか尋ねました。

T君はそれを台紙の上の方に貼って欲しいといい、次回その下に続きを描けるように、スペースを残して貼ることを望みました。

切り取られて、気に入らないものはなくなり、残したいものが大切に貼り付けられる様子を見て、次回続きをしようと思ったのかもしれません。

例え続きをしなかったとしても、この時、そう思ってくれたことは嬉しいことです。

私は無理に彼に描かせて、今回のワークを完成させることはしませんでした。

そして、彼は感情表現をするというアート活動、発散して昇華するというアートセラピーを体現していました。

1日で仕上がるものなんてほとんどありませんし、失敗やボツも大量にあり、人間は日々成長しています。「今日は90分間アートスタジオにいて、色々な体験をしました。」・・・それでいいのです。


アートセラピーでは、このように安全な枠の中で、アート素材を使って、ワークの中で安全に、モヤモヤした感情や気持ちを出させていきます。

破いたり、切ったり、壊したり、叩いたりするとすっきりする経験は皆さんもあると思います。

アートの中ではこれらの行為が正当に存在し、受け入れられます。

勿論、それは自分のワークの中でのことだけで、大切な道具や友達、仲間の作品を大切にすることなどはルールで守られています。

過剰な保護ではなく、危険なことはきちんと伝え、やっても構わないことは見守ります。

これはきちんとアートセラピーを学んだセラピストがいるからこそ、できることです。

子どもも次回道具や施設が使えなくなることは困ると分かっていますし、自分のものが勝手にいじられ、大切にされないことが悲しいことだと理解しています。


アートセラピーの中で普段ためていたものを発散できると、人は落ち着きます。

感情がアートとなって現れることもあるでしょう。

無意識が表出されて、大人はそこから気づきを得、言葉を得たりすることもできるかもしれません。

子どもはアートで出し切り、それを受け止めてくれる保護者や親しい人、セラピストがいれば満足します。

子どもには感情や現れた表現を言葉にすることが難しいので、子ども自ら話さない限り、セラピストは聞きません。

それでも、子どもは自分の表現を通して色々な話をしたがることもあるでしょう。

「これは何」と教えてくれるかもしれません。

が、決して大人の方から「これはウサギね。」と決めつけたり、「これはなんなの?」と質問攻めになったりしない様に気をつけて欲しいものです。

子どもは未熟な自分に傷付き、自信を失うかもしれません。

ご自身が子どもだったときに大人に言われたかった言葉はなんでしたか?

覚えていらっしゃいますか?

私は「この絵について教えてくれる?」「どんな物語があるの?」「ここをこう工夫したんだね。」「ここ、すごく頑張って、塗ったんだね。」と、言って欲しかったように思います。

それは、絵=自分をもっと知りたいと歩み寄ってくれること、自分の存在や行為を肯定されることでした。

無関心や無視は貶されるより苦しかったです。

ですから、お子さんの作品を見た時に感じたご自身の感情や想いを素直に伝えてください。

子どもは関わりの中で言葉を学びます。

言葉では難しかったら、ギュッと抱きしめたりして行為で表し、子どもと一緒に言葉を探していきましょう。

子どもは保護者の体の温もりや言葉を欲しています。

また子どもが制作を途中で終わらせたり、破棄したり、保留にすることも大切です。

子どもは完璧にやりたがりますが、それは成長しようという子どもに備わった力、より良いものを求める人の本能です。

しかしそれを今、完成させることが目的ではないのです。体験すること、味わうこと、チャレンジした事実が大切なのです。

その場で完成させることを、子どもやご自身に求めないで欲しいものです。

人は皆、成長する生き物です。

未熟さも含めて認めてあげてください。


作品に対していただいた言葉で、私が一番嬉しかったことは、ギャラリーで個展をした時に、アーティストの方に「いい子がいるね。」と言われたことでした。

絵と共に、自分自身の行為・存在を褒められ認めて言葉で言ってくれたことは初めてで、とても嬉しく心に響きました。

そして、無言ではあったけど、自分は親からも認めてもらっていたのだと気付いたのは、自分が子育てを始め、畑で仲間に巡り合い、アートセラピーに出会ってからでした。

アートセラピーに出会ってやっと、親を理解し、自分に気づき、親や自分を許せたのです。

色々な気づきがあり、何人もの人生を経験したような変化でした。


アートセラピーの中で、感覚や感情を感じ、手や感覚を使うことは「こうすべきである。こうした方がいい。」という思考を手放し、自分に戻り、直感を取り戻します。

そして出てきたアートの中に色々な自分が見えてきます。

自分の無意識から出たものもあり、びっくりされるかも知れません。

そのアートを客観的に見たり、アートと対話をしたり、仲間とアートを通して対話をしたりする行為は、更に広い思考を促し、バランスよくものごとを捉えることが出来ます。

人と関わる方、特に子どもに関わる方に、是非アートセラピーの経験をして欲しいと思います。



2023年2月1日    泊口直江

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